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マニ (預言者) : ミニ英和和英辞書
マニ (預言者)[もの]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

預言 : [よげん]
  1. (n,vs) prediction 2. promise 3. prognostication
預言者 : [よげんしゃ]
 【名詞】 1. prophet 2. predictor 3. prognosticator
: [げん]
 【名詞】 1. word 2. remark 3. statement 
: [もの]
 【名詞】 1. person 

マニ (預言者) : ウィキペディア日本語版
マニ (預言者)[もの]

マニ(, または , または , ペルシア語:مانی, シリア語:مانی)はサーサーン朝ペルシア時代の預言者216年4月14日- 277年2月26日〔青木(2010)〕)。グノーシス主義の影響を強く受けた新しい宗教マニ教開祖として知られる。、原音に忠実な読みでは「マーニー」である〔が、本項目では日本語の慣例表現に属して原則「マニ」と表記する。
== 生涯 ==
預言者マニは、パルティア帝国の末期に、メソポタミア平原南部のバビロニア地方のマルディーヌー村で、パルティア貴族の父パテーグと、パルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれる〔。従ってマニは、血統から言えば「パルティアの貴公子」と言っていい出自であるが、本人はあまり気にしなかったらしく、マニ教の教義では特に特筆されていない。「マーニー」という名前は東アラム語では普通の人名で、他にも多く確認できる〔「マニ教概説」第一章 〕〔母の名マルヤムはイエスの母マリア聖母マリア)からの借用と考えられる。「マニ教概説」第一章 〕。
父パティークは、ユダヤキリスト教系新興派であるエルカサイ教団(洗礼派、グノーシス洗礼教団)に属していた。この教団は女人禁制で、パティークは身重の妻を放り出して入信。マニは初め母親に育てられるが、4歳の時父が迎えに来て、以後青春時代をエルカサイ教団内で生活することになる。なお母マルヤムは、これ以後記録に見えず、マニと交流があったのかも定かでない〔。
226年に建国されたサーサーン朝は当初、ユダヤ教・キリスト教に対し比較的寛容であったが、そのいっぽうでゾロアスター教国教と定め、ペルシア王は自ら「アフラ・マズダーの崇拝者」と宣言していた〔『ラルース 図説 世界人物百科I』(2004)pp.215-217〕。ゾロアスター教は、紀元前7世紀頃にザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)によって創始された、一神教的傾向を有する宗教で「拝火教」ともいわれる。その聖職者は「マグ」と呼ばれる僧侶によって支配され、「モーバト」と呼ばれる祭司によって構成されていた〔。
マニが12歳のとき、自らの使命を明らかにするの「啓示」に初めて接した〔加藤「マニ」(2004)〕。その後、ゾロアスター教やキリスト教、またグノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を形成していった。24歳のときに2回目の啓示をうけて再び召命を経験し、新しい教団の設立を決意して父の教団を離れてマニ教を開教した〔。バビロニア、ペルシアからインドにわたり、北西インドから中央アジア地方にかけての伝道を続けたが、当初は信者を多く獲得するに至らなかったという〔。こののち、バビロニアに戻り、サーサーン朝のシャープール1世兄弟を改宗させ、シャープールの宮廷で重用された〔。これにより、マニはペルシア王国全域およびその周囲に伝道して信者を増やし、教会を組織し、弟子の教育に努め、またローマ帝国領内にも宣教師を送った〔。
マニは、世界宗教教祖としては珍しく、自ら経典を書き残したが、その多くは散逸してしまった。シャープール1世に捧げた宗教書『シャープーラカン』では、王とマニ自身とのあいだの宗教上の相互理解について記述されている〔。また、芸術の才能にも恵まれ、彩色画集の教典をもみずから著しており、つねにその画集をたずさえて布教したといわれる〔「マニ教概説」序説 〕。そのため、マニは青年時代、絵師としての訓練を受けたという伝承も生まれている〔。
272年にシャープール1世が死去し、その子であるホルミズド1世およびバハラーム1世の時代になると、マニとその教えは、ゾロアスター教の僧侶(マグ)たちからの憎悪にさらされることになった。バハラーム1世のもとでサーサーン朝がゾロアスター教以外のユダヤ教・キリスト教を迫害すると、マニ教もまた迫害されるようになった〔。276年、大マグのカルティール(キルディール)に陥れられたマニは、王命により召喚を受けて投獄され、死刑に処せられた〔。マニの最期については、磔刑に処せられたという説と、皮剥ぎの刑に処されたのち斬首されたという説がある〔。後世のマニ教徒たちが残した文書などによると、皮をはがされたマニが生きているという噂は残り、アラビア語の逸話集の中にはワラが詰め込まれたマニの皮が、時々シャープールの都市の門に吊るされていた、というものもある。その一方で、近年の文献資料からは比較的穏やかな状況下で獄死したのではないかとも推測されている〔。なお、マニの死にかかわったカルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。
マニの死後、バビロニアに避難した弟子のシシンは教団の指揮をとり、以後、マニ教団はシリアパレスティナエジプト、ローマ帝国などへの伝道に力を入れ、多くの信者を獲得した。マニ教の典礼ではマニの受難を「ベマ」(ベーマ)といい、祭礼の日となっている〔〔ベマないしベーマとは、ギリシア語で「座」を意味している。ベマの祭礼においては、誰も座ることのできない椅子が用意される。「マニ教概説」序説 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マニ (預言者)」の詳細全文を読む




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